これは2018年8月17日の記事を、一部、訂正加筆したものです。
前の記事と一部重複しますが、流れの中で必要と思いましたのでそのままにします。
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東京新聞8月16日掲載より
読者部だより、成田陽子筆
戦時下の犬猫供出・・・という記事があった。
戦争末期、
寒冷地で戦う戦士の防寒コートを作るため犬猫を供出するよう迫られた軍国少年が、
小さい頃から飼っていた柴犬と、
かわいがっていた野良猫の命を守ろうとする話です。
戦争中は筆舌に尽くしがたいことがあったのは想像に難くない。
私の父も、通常なら召集されないはずだった。
一人っ子の男子、長子など家を継ぐ立場の者は、開戦当初は徴兵を免除された。
だが、戦いが進むにつれ、
40過ぎの既婚者、将来を担うべき学徒兵など見境なく戦地に送られた。
勝ち目のない、死ぬためだけの戦だったのに誰も止められなかった。
私の父は満州に、母の弟(私の叔父)も同じく満州から南方のアンガウル島へ。
戦争初期は南方の島々は日本の統治下にあったが、
戦況が悪くなるにつれアメリカ軍に占領されていった。
ちなみに広島へ原爆を落としたエノラゲイはテニアン島から飛び立った。
その戦況厳しい南太平洋の島(アンガウル島)に叔父(母の弟)は散ったのだ。
出征前に撮った写真、母が大切に保存していた。
名前はトシユキと言う。
戦後、慰霊の旅で従兄(叔父の忘れ形見)がアンガウルで採取した浜の砂と珊瑚。
砂は珊瑚が砕けたもので綺麗だったと言っていた。
母に記念に分けてくれたものだ。今は母の遺影とともに仏壇に納めている。
母は末っ子の、この弟をとてもかわいがり頼りにもしていたようだ。
優しくて賢かったそうだ。
私がパソコンからアンガウルの資料をプリントアウトして渡すと隅々まで読んでいた。
心なしか悲しそうだった顔を思いだす。
こんな所まで行ったのか・・・
多分、餓死だったようだ・・・
戦後、新聞や雑誌から、戦争の実態を知ったのだろうか、
辛そうで詳しくは話したがらなかった。
父はと言うと終戦後シベリアに抑留、
3年後に帰国し私が生まれた。
満州からの引き上げ家族も大変な思いをしたが、
シベリアに抑留された者も悲惨を極めたようだ。
父が生きている頃、シベリア抑留の感謝?として国から贈られた銀杯。
死んでから、抑留者には相応の賃金が支払われたが、
すでに父は他界していた。
生存者が多くては支払いきれないので政府は時期を見ていたのだろう。
金額的には数十万円だった。
広報か、個別に来た知らせかは忘れたが、
働いた分の賃金を支払うので申請しろと言う内容だったと記憶している。
父は83歳で他界したので、いったい戦後何十年たってのことだろうか。
50年くらいか?
父から詳しい話を聞きたかったと思う。
食べるものがなかったことや、次々と仲間が死んでいくこと。
遺体を埋めようにも凍土で穴が掘れないことなど・・・
問わず語りに聞いた覚えがあるくらいだ。
笑ってはいけないことだが、子供だったから面白い話として記憶していることがある。
「小便をすると、する先から凍ってしまうんだ」
おちんちんの先からツララが出ている姿を想像しておかしかったのを覚えている。
父親の辛さなど想像できなかった頃のことである。
私の戦争の記憶は実体験としてはない。
だが、父親世代から聞いたこと、
そして、まだ戦後が色濃く残った貧しい時代を経験していることから、
戦争の悲惨さは想像できる。
父が帰らなかった従兄は一人っ子として成長したが
父が帰った我が家は、早逝した子も含め兄妹は5人
うち一人は戦時中に栄養失調で亡くなり、
一番下の妹も未熟児だったようで1週間持たなかった。
戦時中に亡くなった姉は母親の乳も出ず、
ミルクなども無かったとか・・・。
戦後も10年ほどは貧しい時代だった。
この季節になると必ず戦時中の逸話が語られるが、私には理解できる。
中には、それは無かったという人がいるが、何でもあったのが戦争だったと思う。
だから新聞に載ったこの話は悲しくも真実だと思うのだ。
終戦の夏も暑かったと聞きく。
今年も猛暑だ。
暑くて伸びている在りし日のクロちゃん。
2013/8/4撮影
本当の姿はキリっとりりしいのだ!